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神田外語大 | 柴原智幸「試験対策からの脱却!大学が担うべき英語教育の今後とは」

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本日は、神田外語大学の柴原智幸(しばはら ともゆき)先生に、日本の英語教育の課題と、大学が担うべき英語教育の今後についてお話をうかがいました。柴原先生は大学における無闇やたらな英語教育拡充に反対されており、それよりも人間としての幅を拡げるためのリベラルアーツ教育の充実こそ必要だと主張されています。

プロフィール

・神田外語大学専任講師
・同時通訳者
・NHKラジオ講座「攻略!英語リスニング」講師

上智大学外国語学部英語学科、英国バース大学の通訳翻訳コース(修士課程)を経て、BBC(英国放送協会)に入社。日本語部で放送通訳者として活躍し、帰国後はNHKの放送通訳や「ディスカバリーチャンネル」などでの吹き替え用映像の翻訳、通訳養成学校での指導を行う。2004年より青山学院大学、獨協大学、立教大学で非常勤講師を務めたのち、2009年より現職。2011年4月よりNHKラジオ講座「攻略! 英語リスニング」講師。

NHK CD Bookの「攻略!英語リスニング ヴィジュアライズで上達!長文リスニング」や「攻略! 英語リスニング 徹底シャドウイングでマスター! 長文リスニング」、アルクの「オバマの英語 徹底トレーニングブック」(柴田元幸・内田樹・町山智浩・明川哲也との共著)など著作多数。

大学入試におけるTOEFL iBTやIELTSなど、4技能の外部試験の導入は、本当のグローバル人材育成に寄与するのか。「英語を話せれば国際人なのか?」という問題を紐解きながら、柴原先生に大学教員というお立場からグローバル社会で活躍する人材を育てるための英語教育についてお話していただきます。

1. 日本の英語教育変遷史

① かつての文法訳読主義のメリット

20~30年前までの日本の英語教育は文法訳読が中心であり、語彙・語法・文法の理解が重視されていました。そもそも文法訳読方式は、欧米の文献を読み進め、最新の技術や理論、さらには文学作品などの芸術作品を、理解・吸収できる人材を育てるために練り上げられた方法論が、土台になっています。

もともと口頭でのコミュニケーションを想定したものではありませんので、ある意味で文法訳読方式の教育を受けた人にリスニングやスピーキングの力を求めるのは、筋違いともいえることでした。和食の名店に入ってフレンチを注文するようなものだったのです。

ただ、ここで私は「名店」という言い方をしましたが、英文を読んで理解したり、自分の発信したいメッセージを英文に組み上げたりすることに限れば、文法訳読方式はかなり効果的な方法論だったことを強調しておきたいと思います。

私は上智大学で、帰国子女の学生たちと同じクラスで英語を学んでいました。確かに帰国子女の彼らは、日常会話や簡単なプレゼンなどは私よりも遥かに上手で、ひそかに自分は英語が出来るとうぬぼれていた私は、英語を流暢に操る彼らを見て自信を失ってしまいました。

しかし驚くことに、少し知的な内容、例えば学術的なトピックや社会的なトピックともなると、彼らも私と同じように苦戦していたのです。いや、むしろ私は中学から文法訳読方式で育ったため、ある程度複雑な英文も読み解け、学術的場面などで使われる高度な語彙や表現なども知っており、帰国子女たちよりも有利なこともある程でした。

つまり、語彙・語法・文法を体系的に学ばせる読解重視の英語教育のおかげで、学術領域や社会的なトピックにもすんなり順応できたのです。批判の多いかつての文法訳読主義的な英語教育にも、このようなメリットがあったことは、自分自身の体験を通して指摘しておきたいと思います。

② コミュニケーション力を重視する英語教育へのパラダイムシフト

ところが、文法訳読主義の英語教育では、双方向的なコミュニケーション能力が育たないとして、コミュニケーション重視の英語教育が20~30年程前から伸張してきました。これは日本という国の特徴なのかもしれませんが、新しいものを導入しようとする際に、前のものの全否定をする傾向があるように思います。

英語教育においても例外ではなく、「文法訳読なんてやっているからダメなんだ。もっとコミュニケーション能力を育てる教育が必要だ」ということになり、それに伴い英語教育の現場において「間違ったって構わないから話してみよう、書いてみよう」という風潮が高まってきました。

するとどうなったか。確かに今の学生はかつての私たちよりは英語は使い慣れていると思います。人前で英語を話すということへの抵抗感も、かつて程はないようです。

しかし「間違えてもいいんだ」という薬が効きすぎて、「間違いは直さなくていいんだ」と思ってしまっている人が多いようです。結果として、文法の初歩的な間違いが眼に余る程に多かったり、もしくは、稚拙な表現しか扱えなかったりということになってしまいました。

③ 日本人の英語力は高まったのか

日本人の英語は依然として下手なままです。なぜなら日本に生きている限り英語は必要ありませんから。昨今はまるで「英語が使えないと生きていけない」かのように英語習得への強迫観念のようなものが社会的にあおられてきていますが、実際に日本で生きていて英語ができないからという理由で不自由することはほとんどありませんね。結局、英語を使う必要のある人だけが英語を学び使っているという状況には今も昔も変わりありません。

多くの人には「英語を通じてこういうことをしてみたい」という情熱もないので、英語は大学入試や会社が受験を要求する資格試験をクリアするために、なるべく時間や労力をかけず「片付ける」ものという位置付けになってしまっています。これでは、本当に使える英語力が身につくはずがありません。

2. 2技能でも4技能でも、試験対策である限り何も変わらない

① 試験対策である限り、本物の英語力にはなり得ない

最近ではTOEFL iBTやIELTSなどの外部4技能試験を入試に導入して「使える英語力」を持った学生を選抜し育てるという大学が増えてきています。しかし、英語の力を測るこのような資格試験は、本来は試験対策をせずに受けるからこそ、実力を測ることが出来ます。

逆を言うと、試験対策をして取得したスコアは、本当の実力を反映したものではありません。「なぜ私は英語を勉強しているのか」ということを徹底的に考えさせてあげないと、それらの外部試験を導入したところで、やはり英語は、大学入試をより効率良くクリアするために、極力時間と労力をかけずに「こなすもの」になってしまいます。

② 大学入試の本当の目的

そもそも大学が独自に試験を実施しているのには明確な理由があります。大学はそれぞれ異なった教育方針や社会的ミッションを掲げています。だからこそ独自の入試を通じて、自分の校風に合致した学生を選抜しているのです。

たとえば、ある大学は1つの難題を時間をかけて対処できる学生に来て欲しいと思っており、大学在籍の4年間で1つの課題をじっくり考えぬく力を伸ばしてあげたいと考えている。一方で別の大学はいくつもの簡単な問題をミスなく短時間でこなせる学生が欲しいと思っていて、大学在籍の4年間で複数のタスクを同時にこなす力を育ててあげたいと考えている、という具合です。

したがって本来、ある大学が他大学と入試制度を共有することは、教育の独自性と多様性とを放棄することと同義なのです。学びの場の多様性が失われてしまうことは、なにより学生にとって不幸です。将来の自分のなりたい姿を想像して大学選びをする高校生たちにとって、もしくは他では学べないことを学ぼうと思っている大学生たちにとって、大学教育の画一化は将来の選択肢の縮小を意味します。また、入試制度や教育の画一化は、今の偏差値重視型の大学選びに、より一層の拍車をかけるでしょう。

③ 「英語 = 国際人」という大いなる誤解

私は、最近あまりにも英語が重視されすぎていることに疑問を感じています。つまり、「英語 = 国際人」という大いなる誤解が蔓延してしまっているのです。大学入試もその一例ですね。英語が話せれば国際人なのではありません。教養や問題解決力を身につけた上で、海外の人と対等に渡り合える人材こそ国際人なのであって、教養や問題解決力のないままに英語力だけがあっても国際社会では相手にされません。

それに呼応するように、英語にしか興味のない学生というのが最近になって増えてきてしまったように思います。英語を使って歴史や哲学や文学を理解して、自分の知的世界を広げたいというわけではない。TEDや海外ドラマを英語で見まくり、そこから表現を拾って自分の意見を言う時に役立てるわけでもない。

彼らにとって、「英語力=資格試験の点数やスコア」という認識で、しかもその点数やスコアを伸ばすこと「だけ」に関心がある、という非常に憂慮すべき傾向があるのです。もちろん、貪欲にあれこれ学んでじっくりと考え、自分の意見を発信できる学生も例外的にいて、私は大いに応援していますけれども。

私はよく学生に言うのですが、いくらキレイな包装紙に包まれていたって石は石なのです。また、新聞紙に包まれていたってダイヤモンドはダイヤモンドなのです。つまり、中身を磨くことこそ重要なのです。資格試験のスコアを伸ばすことだけに汲々としても意味はありません。英語を使って何を知りたいのか、どんな意見を発信したいのか、ということこそ重要なのです。

3. リベラルアーツ教育こそ大学の使命

① リベラルアーツ教育の重要性

英語が理解できると、得られる情報量が増えます。それは学生にとって世界が広がったということと同じです。しかし前述のように自分の感知しない事象に関して興味のない学生が多いので、英語を学んでもその先がないのです。「中東やアフリカでなにが起こっているのか」、「ギリシャでなにが起きているのか」などということにもともと興味がないから、英語を身につけても、それを使って情報を得たり発信したりしようと思わない。結局、英語を習得することが目的の英語学習になってしまっています。

では、大学の使命とは何か。それはリベラルアーツ教育です。専門分野だけではなく、その専門分野が社会の中でどんな位置を占めているのかを理解すること。自分たちをとりまく社会の成り立ちや、今現在起こっていることに興味を持ってもらうこと。

そして「なぜこれはこうなったんだろう?」とか「その問題を解決するにはどうしたらいいんだろう?」と学生に考えてもらうための動機を与えることが大学の役目です。「もっといろいろなことが知りたい」という考えが芽生えれば、様々な情報を収集したり、海外の人と意見を交わしてみたりしたくなるものなのです。そこで、英語を活用しよう、活用するためにはしっかり勉強しておこう、となる。

② 入試科目を増やすことがリベラルアーツ教育の下支えになる

私は入試における4技能試験導入を完全悪と言うつもりはありません。ただ、英語の試験を4技能にするくらいなら、私は入試科目を増やすことこそ優先されるべきだと思います。

今では入試科目が現代文・英語・面接だけという大学もあります。大学でシェイクスピアを学びたいと思ったら、日本語の重要な要素である古文・漢文の格調高い響きを知っていることが、理解の大きな助けになるはずです。また、シリアの難民問題を知ろうとした時、世界史を知らずにそれを理解できるでしょうか。また、国際法に興味を持ったとして、三十年戦争とグロティウスを知らずにそれを理解できるでしょうか。

もちろん、これらは大学に入学した後からでも学ぶことができます。しかし、そもそもこういったことに興味を持ってもらうために、大学入学前に様々なことに触れておくことが重要なのです。さもなくば、大学4年間で興味の持てることなんて1つもなかったということになりかねません。

大学入学前に様々なことに興味を持ってもらうための入試制度、そして、その興味を深めてもらうための在学中のリベラルアーツ教育こそ今の大学に求められている使命です。

③ 大学は企業の下請けではない

「大学は企業の下請けである」という表現を耳にすることがあります。どうせ大学を卒業した者の多くが企業に就職するのだから、社会に出て役に立たないような教養科目は減らして、即戦力となれる人材を育てるために表計算ソフトの使い方などを徹底的に教えたほうがいい、という主張です。

残念ながらこの主張は非常に危険です。表計算ソフトなど、当座で役に立つ実務的スキルは技術の進歩とともにすぐに役に立たなくなるからです。どんな時代、どんな状況でも通用するスキルを身につける学びの場が大学であることを忘れてはいけません。

現在、一部のトップ大学を除く多くの大学を職業訓練学校化すると提言した「第1回実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議」が話題になっていますね。これは、若者の問題解決力・想像力を育てることをやめると提言したということなのです。大学が増えすぎていると言われることが多い昨今ですが、だからこそ大学教育の本質を見失わないことが重要だと思います。

まとめ

柴原先生は、入試英語の4技能化や大学の職業訓練学校化を批判的に考察しながら、大学や文部科学省の教育者本人たちが、大学教育の本質を見失ってしまうことを危惧されていました。当座の利益やニーズに応じて教育制度をころころ変えてしまうことは、若者たちの問題解決力や想像力の発展を阻害してしまうということを強調されていました。

しかし、この教育問題は、仕組みを考えている大人だけの問題ではなく、学ぶ側の若者たちが考えることを怠っていることにも起因するようにも思います。高校生は「なぜ大学に行きたいのか」、大学生は「なぜ大学に通っているのか」ということを自問自答しながら、自分の学習の目標を見失わないようにしたいですね。

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